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2006年7月24日 (月)

「開戦前夜」

「開戦前夜」児島襄(著)
日米開戦前1年間のドキュメンタリー。駐米大使として日米交渉を担った野村吉三郎を中心に、開戦に至るまでの経緯が児島襄(のぼる)ならではの緻密な取材と詳細な記述で語られる。

野村吉三郎は、和歌山の人。海軍兵学校卒、海軍大将で退役。その国際的視野の広さを買われ外務大臣を務めた。後に乞われて駐米大使に就任したのが日米開戦の1年前。歴史の歯車が大きく回転する中、悪化する日米関係を改善するには余りにも無力であったというのが正直な印象。

再三の大使就任要請を固辞し続けていた彼が、ついに就任の決意を固めたとき、海軍大臣米内光政の忠告は、「二階に上げておいて梯子をはずす輩が多いのでご注意を。」というものだった。

大きな譲歩案も目新しい提案もなく、手持ちのカードは無いに等しい条件で、和平交渉がまとまる見通しもなく、結果として梯子をはずされたに等しい仕打ちを受けた。

ひたすら誠実な態度で交渉に臨む野村大使には厳しい評価の向きもあるが、何よりろくな交渉カードを用意できなかった時の政府の責任は重く、人選そのものについてもその責めは政府にある。

加えて、対独参戦の方策を模索する米国は、ある時期から参戦を見据えた外交交渉に転換していたと考えられる。

野村大使の努力は、皮肉なことに彼の後輩たちである日本海軍の真珠湾奇襲攻撃による日米開戦という形で終わる。加えて、彼の同僚、部下である外務省 事務方の怠慢としか言いようのない単純な不手際により、開戦後に最後通告を手交するという道化役まで担わされている。野村大使は、最後通告を手交した後、 ハワイ奇襲攻撃の事実を知らされたという。

時の外務大臣松岡洋右(まつおかようすけ)は日独伊三国同盟の推進者であった。三国同盟米英との決定的対決を招くとする反対論者に対し、「三国同盟」による強い姿勢が米英の譲歩を引き出す、それが和平への道を開く。」と答えたという。松岡は戦後、A級戦犯に指定され、巣鴨拘置所に収監されるが、持病の結核が悪化、東京裁判の結審を見ることなく病没する。

幼いころ渡米して苦学を重ねた松岡は、米国を冷静に理解した人というより、米国に対する敵愾心を身につけて帰国したかのような印象がある。そんな彼を外交の中枢に据えたことは大いなるミスキャストではなかったか。?

日米開戦のスイッチを押したのは東条内閣だが、その導火線を敷いたにも等しい近衛内閣の責任は重い。

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